コンピュータ・ファイト

コンピュータ・ファイトというバンドで、僕はベースで、山野はギターを担当していた。ドラムはサークルの知人に頼んでやってもらった。(名前は忘れてしまった)ギターリフを繰り返し、二、三の展開をしたあと、グチャグチャにフェイドアウトしていく、というような単純な曲を10ほどつくり、なるべく大音量で演奏した。山野はボーカルも兼任していたが最後までなにを歌っているかわからなかった。

早稲田の学生だった僕らは、現代音楽研究会なるサークルで出会った。ロックミュージックに入れあげていた僕と山野だったが、その音楽サークルに集った他の部員共を心底毛嫌いしていた。彼らは、洗練された自分たちの曲を、情感たっぷりに演奏して、打上げで素晴らしいだのなんだのとか褒め合うのが慣例だった。彼らは確かに上手だった。上手にその場にある音楽や、人間に没頭し、美しいかのように見せた。それらが本当に評価されるものかはどうかはさておき、彼らの仕草はどうしようもなく、僕らの気に障った。理屈のない純粋な嫌悪。

あの現代音楽研究会を台無しにすべく、山野に誘われコンピュータ・ファイトというバンドを組んだ。僕たちは自分たちの作った曲に愛情などこれっぽっちもなかった。それは装置だった。

5秒で考えたような粗末なリフを繰り返したあとは、山野はアートリンゼイもどきの調性を無視したソロを弾き始めたかと思うと、その数秒後にはギターを放りなげて、「つまらないつまらない」みたいなことをステージの端で呻いていた。僕も山野に負けまいと、ベースを床に叩きつけようとしたが、僕の腕力では「ロンドン・コーリング」のジャケット写真のようにはならず、ベースごとステージに崩れおち、そのままのたうちまわってた。

当然のごとく、僕らは現代音楽研究会の連中の嘲笑される存在となった。

うるさいだけだとか、もうやりつくされた破壊衝動気取りだとかそういうのだ。中には面白がってくれた人もいたが、これに関しては前者の嘲笑の方が的を得ていた。

僕らも自分たちの空転に気づいてたのだ。

ものにできていないのだ。自分たちが目指していた先人のロックバンドの訴求性には遠く及ばない。そのことを、自覚した頭のままで、あがくことしかできていなかった。

「コンピュータ ファイト」は山野がつけた名前だ。曲名なんかでも、山野は抽象的でも具体的でもない、一般名詞を組み合わせるのが好きだった。

ある日山野は、最新のMac Bookを買ってきて、それに音楽制作ソフトを入れた。ハナから彼は、打ち込みの音楽なんかやる気がなかった。

バンド名の必然なのか、僕らはギターとベースを捨て、コンピュータを演奏に使うようになった。僕らは先人たちの音楽と同じ土俵では勝てないと早々に悟ったからだ。僕も山野とおなじMac Bookをなけなしのお金で買い、いわば彼の猿真似でPCから音を出すことを考え始めた。

山野はMacから、ソフトが処理できる限界の音を出そうとしていた。

それでは飽き足らず、ソフトの関数を無理やり書きかえ、CPUが処理できる限界の音数を出力しようとした。僕らはコンピュータを嫌ったが、だからといって愚直にアナログに回帰するような、開き直りの根性論こそ最も僕らの美学に反した。僕らはコンピュータを叩きのめす必要があった。そのために、僕らはコンピュータ、プログラミングについて研究し、最終的にCPUを物理的にぶっ壊すような破滅的なコードを書いた。だから、30分の持ち時間をもらっても、僕らの演奏はコンピュータがダウンするまでの数分間だけだった。

それから、サークルのDJだとか、エレクトロ・ミュージックをやってる連中がなぜか僕らの演奏を気に入りだし、「早大ノイバウテン」だとか適当なキャッチフレーズをつけられた。(彼らはスノッブらしい安易な引用を好んだ。)そしてYOUTUBEにあげた、僕と山野が二人でライブでPCをクラッシュさせた動画が音楽マニアの間で小さな話題になり、ライブハウスのイベントなんかに呼ばれるようになった。

僕らは呼ばれれば色んなところで演奏を行なった。前衛音楽、ハードコアパンク、クラブイベント。僕らが舞台に出て演奏すると、観客は決まって熱狂していた。それは実体のないから騒ぎだった。僕らを見にきてたのは、自意識過剰な音楽オタクたちで、PCをその場でクラッシュさせる僕らを媒介にして、ただ日々の苛立ちを吐き出してただけなのだ。僕らはなにも目指していなかった。そのうち、そういう状況に僕らは飽き始め、それと同時期に聴衆からも忘れさられ、イベントに呼ばれなくなった。それは悲観するようなことではなく、自分たちが音楽未満の馬鹿騒ぎを見世物にしてたことを考えればむしろ、長続きした方だった。そうやって、僕らはコンピュータ・ファイトを解散した。解散について、なにか言及した者は一人もいなかった。

ノイズロックバンドから、PCの破壊活動という変遷を経たコンピュータ・ファイトの活動が終わったあと、僕と山野は表現というものにすっかり興味をなくした。そのまま一般企業に就職した。彼が今なにしてるかはわからないし、今更知りたいも思わない。僕の人生の中で唯一のあっけない始まりと終わりを持った出来事の話だ。